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日文介绍日本遣唐使.doc


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青春の遣唐使01 阿倍仲麻呂宰相の娘と結婚?王勇陰陽五行説では、青い色も春の季節も東方に配当される。六三〇年から八九四年にかけて、東から海をわたってきた遣唐使は、まさしく「青春」の言葉にふさわしい。そして、青史に名を垂れる遣唐使人の多くは、求法や留学に青春を燃やした。阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)もその一人だった。一九九八年、拙著「唐から見た遣唐使」(講談社)が上梓(じょうし)されてまもなく、一通の手紙が研究室に舞い込んだ。差出人は日本在住の華僑F氏、「仲麻呂が唐女を娶(めと)った」との愚説に同調してくれ、新証拠として同人誌に書いたエッセイ「客家(はっか)とは何か」を添えていた。さっそく拝読すると、西安の仲麻呂記念碑に「宰相張九齢(ちょう・きゅうれい)の娘と結婚した」とある経歴を見て「急に仲麻呂に対して親近感を覚えた。若しも仲麻呂が再びこの世に現れたら、私と客家語でお話し出来ただろうと想像するだけでも楽しくてしょうがない」と書かれている。「開元の治を花咲かせた名宰相の千金と?」わが目を疑った。もし事実だったら、古代史の一大発見になるのだ。そう思って図書館へ飛び、碑文をつぶさに点検したが、F氏の言う証拠はついに見当たらなかった。養老元年(七一七)晩春、十九歳の仲麻呂は多治比県守(たじひのあがたもり)を正使とする第九次遣唐使節団に随行して難波津から出帆、十月ごろ待望の長安に入城した。その後、官吏を養成する太学(たいがく)に進学、科挙試験を突破、皇帝玄宗の側近となり、宮中の図書などをつかさどる秘書監や南方を治める安南節度使にまで昇りつめた。栄光ある晩年よりも、その波瀾(はらん)万丈の青春時代に魅力を感じるのは私一人ではなかった。吉川幸次郎(よしかわ・こうじろう)博士は森鷗外の「舞姫」の軼事(いつじ)を引き合いに、仲麻呂には「少なくとも姫侍はいたであろう」と推測するが、わたしは王維(おう・い)の送別詩序の「必斉之姜、不帰娶於高国(結婚相手は必ずや大国の公主にして、帰って諸侯国の娘を娶らず)」を結婚の証拠と見る。「あまの原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」という望郷の歌はあまりにも有名だが、儲光羲(ちょ・こうぎ)の詩に「美無度」とたたえられる美ぼうだったという仲麻呂が恋もなく、長安に生涯を閉じたのではもったいない。(中国浙江工商大学日本文化研究所所長)青春の遣唐使02 吉備真備左大臣の風流韻事王勇「続日本紀」に「わが朝の学生にして名を唐国に播ぐる者は、ただ大臣および朝衡の二人のみ」と激賞される朝衡と大臣は、それぞれ阿倍仲麻呂と吉備真備のことを指す。二人は遣唐使の同期だが、右大臣にまで昇りつめた真備は、帰国者の幸運児だった。真備の事績として唐物の将来、二回の渡唐、「私教類聚(しきょうるいじゅう)」の撰述などは史書に記されているが、十八年間の留学生活について確実な記録はない。それがかえって庶民の好奇心をそそり、芸術家の想像力を刺激し、あまたの俗説を生み出させた。奈良市十輪院町の一角にある十輪院(じゅうりんいん)、その本堂横に小さな土饅頭(まんじゅう)形の「魚養塚(なかいづか)」が佇(たたず)んでいる。魚養は南都七大寺の額を揮毫(きごう)し、空海の師となった能書家と伝えられるが、それよりも観光客をひきつけるのは、真備の息子との言い伝えである。「宇治拾遺物語」や「本朝能書伝」によれば、真備は唐の女性と恋に落ち、子宝に恵まれたが、再会を約束して帰国した。その後、夫が杳(よう)として音信がなかったため、妻は恨んで子供を海に流した。この子は魚の背中に乗って日本に漂着、父と再会したという。説話の真偽はともかく、二十三歳の若さで渡唐した真備は、異国に名を揚げようと精彩を放ったと想像される。「江談抄」や「吉備大臣入唐絵詞」には面白い逸話が盛りこまれている。真備の帰国に際し、唐はさまざまな難問を設けて引きとめようとした。そのひとつは囲碁の腕比べ。帰心矢の如(ごと)き真備は負けそうになると、こっそり相手の石を一つ呑(の)んだ。それが発覚して下剤を飲まされたが、下痢止めの薬で急場をしのいだという。江戸時代、本因坊は幕府の下問に「碁の伝来は真備なり」と俗説を正当化している。また高楼に閉じ込められ、難解で知られる「文選」を読まされるが、鬼に助けられて楼を抜け出し、「文選」の講釈を盗み聞き、みごとに解読した。ちなみに阿倍氏を名乗る鬼は仲麻呂をモデルにしているとされる。真備は留学成果として「唐礼」はじめ、暦や楽器それに武器などを持ち帰ったほか、多様な学芸を身につけていた。皇太子の教育係をしたこともあり、七五二年には副使として入唐、翌年に鑑真らを連れ戻った。奈良期の唐風文化に大きく寄与したことは言うまでもない。青春の遣唐使03 藤原貞敏琵琶の奏でるロマンス王勇村

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